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過去の記事
(2004.9〜2006.12)

 

 ようこそポトマック書房へ。

  この秋、漸くオープンの運びとなりました。現在、書庫におよそ一万冊の在庫がございます。とても一遍には公開し切れませんのでコツコツとやらせて頂きます。どうぞ、よろしくお願い致します。

 元々、気分任せでしかないのですが、書評らしきものも手懸け、趣味で始めた本のリフォームも本腰を入れる積りです。是非、ご覧の上、ご要望等ございましたら、お気軽にご相談下さい。

 尚、このコーナーは書評の為のメモ。閑雅休題的なリラックス・ムードでゆくつもりです。

 ぴいぷる・ぱあぷる と題した場合は日記風

 その他は、論説調の記述 と予めお断りしておいた方が良いかも知れません。我ながら呆れた能天気振りとは思いますが、悪しからず。なにしろここは充電室ですので・・・。

(ぴいぷる・ぱあぷる)

 電話でアポイントのあったK君が、件のひとを連れて来た。写真家と聞いていただけで、ここまでやるひととは知らなかった。新しいタイプの芸術家である。全くの初対面にしては言いたいことが言い合えた。「絵でも写真でもない僕の世界はプロの評価も殊更に厳しい感じがします。まるで継子扱い」。ああそれで自称「写真芸術家」か。そんな風に開き直らなくても、ここまで仕事が出来ればいつか市民権を持てそうな気がする。「この街では公立美術館も有料なんですね」。と憤慨していたが、あの知名度のわりに大したことのないひとが、商業ペースで居候していたことを思うと同情を禁じ得ない。迷惑でなければ市長に談判してもいいよ、と本気でそう思った。その時、彼の画風から、否、写風かな? 次のようなことを感じた。これは大事なことだから書留めておこう。

 枝が一本折れたが為に、これは桜ではない。と言っているような絵では駄目だと思う。例え微塵も原型を留めていなくとも存在した、という事実を感じさせる芸術。ギリシャ彫刻のような逞しさ、メッセージが欲しいね。要するに提案性だと思う。そこに作者の意図を汲み取ればいいだけの話で、ものを触るように審美眼が働くわけじゃない。枝がどちらへ傾いでいようと関係ないんだ。デリカシィは逞しさの投げかける影のようなもの、そんな風に僕には思える。「コミュニケーション・ギャップの問題も当然含まれるでしょうね」。確かにその通り、だから好きなようにやればいいと言う話に結局はなる。

 再開がどんな形になるか、今度はジェネレーション・ギャップが問題になるかな。    (9/16)

 

 (ゴミとダイエット)

 蓋を開けると一斉に香水壜が匂い立つように、ベルの音でレストランの天井に氷が張るように、ギャルの名で20世紀がどっと逆戻りする。

 使用前と使用後ではことほど左様に言葉のオーラが違ってしまうのだ。ア・ガールはサ・ガールでバタンとロッカーを足蹴り。ギャルソンは狐の襟巻を払って雪の坂道に消えてしまう。印象派のパレットから固有色が退場した如くに、だ。

 トレーナーが和製英語とは知らなかった。カジュアルの親分格で、方向探知機の役割をひとりで背負っていたようなところもある。今時、正式名称・スエットシャツではぽちゃりと水溜りに捨てられてしまうだろうな。ちなみにトレーナーにフードのついたのがスエットパーカ、なんだか舌を咬みそう。これって重宝がられるだけで、中々前面には出てこないよネ。

 ところで、ところで、と。ダイエットの余り物がゴミだなんて考えてもみなかった。メモを残した鉛筆の削りカスだって集まれば馬鹿にならないぜ。ガスを溜めすぎた風船のように飛んで呉れればいいけど、そうは行かない。優柔不断のハムレットが太っちょだったのは運動不足もあるが、万事、良心的過ぎて動きが取れなかったからさ。環境問題にしてからがこれに似た堂々巡り。カチッと音が聞こえて画面の奥に引っ込んだ怪物も相当な目方だったと思うよ。レム睡眠の雪解け道でヘドロにならなきゃいいが、とこれも中々、眠りに本腰が入らないんだ。ー冗談ぬきで。

        (9/18)

 

 (パソコン道中記 1)

 パソコン中毒とは言い得て妙、電波で印字する習慣が身につくと、下を向いた侭、ひっそりと物を書くのが死の影に包まれたような妙な感じで、なんだか嘘寒くなる。顔の真ん前で、恒に対等に向き会う同一画面だからこそ物語の内的呼びかけも真実味を帯びてくる。パソコン中毒の初期症状なのかも知れない。と言って別に横道に逸れた訳ではないらしい。

 しかし、記号化された蟻の行列。これでいいのかなとも思う。

 使い捨てメッセージは、散文の領域だが、詩は意味の伝達プラス・アルファーなのだ。日本語の詩の場合は神主の祝詞に始まる。ザ・アモルフ・ドモシロイでなければならない(このボーダレスな響きは中々良い)。

 実は、詩は縦に降るもの、と言う実感に誤りがないことを確認したのだ。もし詩の横書きが許されたなら、誰よりも早く詩人になれただろう。

 海の微風を持ち運ぶ女神の行列は絶対にタテ型である。それでこそ始めて極上のあもるふとしての柔らかな舌触りを感じさせる美酒となる。

 散文は発想自体に余り比重を置かない、肩の凝りを解す話者としての配慮が大切、このツボを心得た者がプロと呼ばれる。しかし、詩の場合、この等価交換の世界をはみ出した分だけ価値を持つことになるから、しっかり者のプロはいないのだ。本能的に気品溢れたアマチュアに如くはない。

 

 日本語の形と心を大切にしたいものだ。

        (9/19)

 

 (聖なるもの)

 「詩は言葉で書く」と言い放ち、生涯、書斎に引籠もることとなるマラルメと、「モチーフを探さなければ」と言い残して家を出たセザンヌでは、目的も方法も全く異なるような印象を持ってしまう。だが、本質的な処で、実はこれほど良く似た芸術家はいない。詩と絵画を同じ座標軸の位置関係として捉えた場合のことだ。複雑で(と言うよりは猥雑で)、例えようもなく不安な、偶然に支配されている自然、行き当たりばったりな現場の出来事を、もしこう言えるなら、永遠の相の基に定着する作業を通して、 その選ばれた一点でこの二人はぴたりと重なり合うのだ。未完状態の侭、宙吊りにされた特異点、そこには聖なる風が吹き寄せて来る。聖なるものにもはや区別があろうとは思われない。

 これは、一体どういうことであろう? 

 仮定と例証の隙間が埋められず、どうしても完結に至らないとすれば、物の存在が拒まれているということになる。取りも直さず、それは絶対という固定観念に支配されている事実を物語る。セザンヌの場合は画面の書き残しの部分、マラルメの構文中に頻繁に現れる括弧の活用である。 白い紙と、固い素地。そこに表現されたものはなんだったのか。帆を崩す波と、記号化された郷愁の雲、或る色合いが示す傾斜角、漠然としたアトモスフェアーでしかないバラバラの船、・・・

 重い凝視の矢は放たれ、(恐らく何処でもない処へ) そして二人は殆ど同時に立ち上がる。

 聖なる地点で、グロテスクな岬を遠望する。

 完全な天使の翼は背中にある。         

 イデアのプリズム再分割、詩人或いは画家の生身の現場装置を通して、書くこと或いは描くことは多分、このようなことだが、問題はイデアの正体である。元々、壊れやすいこの城、虚無の胎動により構成されつつあるレゾン・デートル。ホログラムのような信念の投影とも言える。

        (9/23) 

 偶々、或る古本屋を覗いてみたら、店の奥まった処に、「活字小説」特価コーナーと書かれた書棚があって眼を惹かれた。幾分、呆気に取られたものの、その時は大して気に留めなかったのだが、変に頭に残り、しきりに頭を悩ますこととなった。

 かって、「活字文化」という言い方があって、時代のステイタスを感じさせていたものである。しかし、この「活字小説」にはそのような誇りは微塵もない。ヴィジアル勢に抗しきれず、白旗を掲げ、不当な扱いに屈した印象を受ける。新しく登場した「劇画小説」と当然の如く向き合わされ、奇妙な関係を結ばれ放置された格好だ。小説と言えば活字で組まれたもの、それに「活字文化」の花形でもあった。こんな屋根に屋根の類の体たらくや、形容矛盾としか思えない語意のお仕着せは、活字世代の一人としては御免蒙りたい。

 絵言葉としての象徴性は忘れられ、スピーチ・バルーンとして漫画の脇役となり、アニメの世界で

は完全に音声に取って変わられる。この事が活字表現の無効性に直結するとしたら大問題だ。

 劇画小説と言うナンセンスな複合名詞をもう一度分離し、劇画VS小説とすることで緊張関係を作り出し、写真VS絵画のように明確な対立的位相において捉え直し価値概念を見出すべきであろう。

        (9/25)

 トランプをシャッフルして卓上に置いてもまだカード自体は固定整序しておらず、混沌としていて手が付けられないらしい。私達が魔術と称して感嘆してやまない世界が成立する由縁もここにある。「月を見ていない時、月は存在しない? そんな馬鹿な!」と言ったのはアインシュタンだが、科学的な事実には魔法が懸けられていたのだ。その鍵を握る者が私達を騙しているように錯覚してしまう。魔術とは二重の誤解である。

 将棋の名人戦で勝敗の決する瞬間は実に良い。サイエンスを感じてしまう。武道においてはそうならないのは何故だろう。例え決め手があっても、奇妙なしこりが残って、辺りに不透明感が漂う。頑固な人道主義が屹立して見えない壁を作るからだ。サイエンスの不在である。

 戦わずして勝つ。ハッタリかサイエンスかは空気で感知するしかない。切り札は初めから勝者の手の裡にある。 

         (10/3)

 (ぴいぷる・ぱあぷる)

 甘いものは脳の働きを良くするらしい。残念ながら、血糖値の高い私は糖分を控えている。眠気覚ましのコーヒーは何杯でも飲むが、夜食は一切ご法度、タバコもやらない。

 タバコが健康に良いか悪いかは、常識的な判断に従うしかないが、ストレス解消に良い面も確かにある。自分に正直な人は、好きだからやめないだけだろう。が、嫌煙権なるものを主張されたら引き下がるしかない。吸殻ポイ捨てのしぐさも取れず、万事お行儀良くなければならない。結局、ストレスを抱え込むことになるから、本来の恵与と相殺してしまう。かっての私は、かなりのヘビースモーカーだった。ゴミゼロ運動に参加して、罪障消滅といきたいところだが、うわべはクリーンな人たちの腹の底が怖くて、まだ一度も出かけたことがない。

 下町のゴミ捨て場は腕白小僧の殴り合いに格好の舞台だが、目抜き通りの美観に潜む犯罪は恐ろしい。

 たった今、自分が切に希求してやまないもの。−それは、読書のあとの一服の清涼感。

 突然、どうした弾みか、濛々と上がる紫煙の中で、上半身裸の侭、巨大なキャンバスに挑む90歳のピカソの姿が感動的に蘇った。

           

          (11/13)

  権威主義や事大主義は文化の後進性を測る物差だが、時代のトレンドは恒に若者の双肩に懸かっている。時代を画するのは「若者言葉」の質である。或る江戸学者は当時の流行語を分析してこの自説を裏付けた。まっとうに評価されたものしか残らないし、いつの世も言語自体の乱れはない。寧ろマコトしやかな嘘が身についてしまった権威筋の、根性曲がりの八方美人的俗物臭の方が問題である。この結論、死語・廃語の山を掻き分け、漸く身に着いた新・言語感覚であろう。ー裸足のシルフを手放しで褒めたことにはならない。

 伝統と保身術を混同すれば形式主義に陥り、創意を偏見として排除するようになる。そんな手合いが、処かまわず底の浅い智慧をひけらかす様子はポケットだらけのだぼシャツを着た道化師みたいで情けない。キレル、ムカツクを繰り返し言語のオアシスを求めたくなるのは当然だろう。

 流暢な能弁派でも困る。彼らには訥弁が思考の痕跡であるなどと思いもよらないことだろう。ゾラの皮相な自然主義に深く傷つけられたセザンヌはこんなことを言っている。

 ー私の描こうとするサン・ヴィクトワール山はこの辺の百姓の見ているサン・ヴィクトワール山じゃな、ないんだ、と。

 スタイルを欠いた表現は悲壮と言うよりは無意味である。−これは朔太郎の言葉だ。

 仏説によると、「無学」は「学問成就」の謂いで、辟支仏とか羅漢とかの地位に当たる。武道では自然体のことである。完全燃焼による発光体は解脱した仏陀のオーラだ。野卑で無知蒙昧な発言の一体何処に「生きた言葉」があるのだろう。俗流エリートの身贔屓も場合によっては捨てては置けない。危険なファッシズムを感じてしまう。文化とは本来否定的なものなのだ。

 始めの言葉に触れて犬や猫は走り出したが、人は躊躇ったと聖書にある。それ以来、人が言葉を使う時、犬や猫は牙を剥き爪を立てる。この差が文化である。自然に身に付くものを文化とは言わない。

 人は感情の動物である,と人の理性は定義する。故に感情的であってはならない。

  人は各々の学習能力に応じて自然に還る。もし、こう言ってよければ、自然を創造する。

          (12/7)

    (ポトマック覚書)

 ぽっと浮かんだ「ポトマック」である。私だけの風景だから、ネイミングに関しての仔細はない。もしかしたら記憶に誤りがあって幻景が実景に取って変わっているやも知れぬ。桜並木で有名なワシントンの風光明媚な河畔はポーツマスでなければならないと私は思っている。本家本元のポトマックは薄暮のガス灯に煙る石橋の下を、堤の苔をゆっくり濡らし乍ら流れる。その川岸の本屋がポトマック書房である。いま、店主のポトマック氏は孫娘の手を借りて仕入れたばかりの本をボートから運び出しているところだ。

           (12/8)

 

 「詩」は言葉の事件簿である。詩を読む者は恒にその現場に立ち会わされる。また、単なる事件の報告書や状況の通り一遍の説明ではない処に、その特徴がある。百年に一度の天才が現れ、百年分の価値を引っくり返すかと思えば、特定のグループ活動による衝撃的な事件もある。前者の場合はランボー、ロートレアモンがよく知られている。アポリネールをその運動の名づけ親とし、ブルトンを組織の事実上のリーダーと仰ぐシュールレアリズム革命は後者の代表格と言えるだろう。

 人間は二足歩行をなぞる事でクルマという似て非なる生き物を発明した。これがアポリネールによる有名なシュールレアリズムの定義だが、日本に於ける活動の原点に滝口修造がいる。一方、日本語圏に旋風を巻き起こした西脇順三郎の些か個人的な詩の業績もある。西脇自身はモダーンの幻影を超自然主義と嘯くことで傍若無人の詩風を醸し出すのだが、モダニズムという横並びの前衛感覚で中心人物に祭り上げられるのは迷惑と言うものだろう。あの極私的詩論に到っては、殆ど天才のオーラを感じてしまう。芭蕉以後の詩人という言い方も決して大袈裟にはならない。

 さて、本場のパリとなると事情はもっと複雑である。ボードレール、何とも安手なフォルムじゃないか!−神童・ランボーの大胆不敵なこの一言が詩の世界を変えた。シュールレアリズム以前に言葉の事件簿に大書されて然るべきは、見者の美学である。言葉が詩的なもの(ポエム)から詩そのもの(ポエジー)へと変貌を遂げた歴史的な瞬間が確かにあった。

 俺のサックスと柳の林、・・・とか

 泣きながら黄金を見たが飲む術はなかった。・・・とか

 脳髄の錬金工房から次々と転がり出るオーパーツのような言葉たち。しかも余りに自明な事柄として宝の山が築かれたので、ランボー以後の詩の書き手は、一斉に在りようを変えた。当時、文学サロンのスノッブたちに神格化されていたブルトンだが、こうしてみると「ランボー教」の開祖に過ぎないことになる。

 マラルメによれば「精神上のエキゾチック」というほかないランボーの詩は古代の魔術を引き合いにしても,そう言えるらしい。なにはともあれ、前代未聞のポエジーという大手術のあとである。残酷な女神の手を逃れたランボーが回復の地をアフリカに求めたのも頷けそうだ。それにしても完璧さが不在を要求したという穿った観方はどうかと思う。

  

 訳出不可能と言われた詩に取り組み、本国に「超現実主義」の理念と作品を導入した先人の努力は大きい。

            (2005.2/10)

 

 存在の最高の形式は存在しないことである。このことから神は支配の形態を本質とする。

 ひとは天国の種である。

 茎から上は神様にしか見えない。

 ひとはひとの道をゆく、−

 神様の掌の中で。

 

             (2/11)

 親孝行のそもそもなんて、そんなものは無い。ギリギリの状況で切れるか切れないか、だ。虚無の重圧で硬く固定されたシーツの皺をのばす度に、目前の死のなんたるかを問わない。ただ、理念のむなしさを知る。  

              (2/12)

 

    きれいな本は

  死んだ本です。

  あたたかさが伝わるのは

  少し汚れた本です。

  軒端の破れた庇から

  こぼれる日差し・・・。

  可哀想なのは

  捨てられた本です。

  こころの波打つ本ではない

  人魚の寝転ぶ岩でもない

  雨ざらしなのでしょう

  スルメのように曲がっています。

  手から手へ

  大切に扱われ

  いつのまにか大きくなる

  目の前の本もそんな赤ちゃん。

                                (2/13)

  

  沈黙の花よ

  虚無の語り手にして

  魂の売人

  不在の岸に

  繋がれたまま

  戸惑うひとつの影

  −おまえ

  言葉の壁に

  揺れている洋燈

      

                 (8/7)

  

 智謀のひとが姦計の徒と交り、善政を強化する。恩田木工による行革の在り方。

 資本主義社会の肥やしが効き過ぎて、司法の根まで腐りかけている現代、議会や役所は臭み止めどころか爆弾のひとつや二つではどうにもならないものらしい。

 善政は前世にある。それを知らない者が悪政を布く。天の定めた道を破壊する成り上がり者の時代だ。

    

                   (8/8)

 本当の苦しみは愛する者から来る、と小林秀雄は何かの本に書いている。リルケにとって愛は学ぶものだった。しかし、どちらにせよ、同じことの別の言い方のように私には思われる。しばしば人は謙虚な正しさを欠くものであり、その場合は決して勇気を持ち得ない。

                    

                   (8/9)

         無題

 

         T

 毟られた花びらの     

 渦に捲かれて

 魚の腹は

 回転木馬のように光り

 濡れた枝を

 撓わませながら

 観覧車が燃え尽きる

 鉄塔に懸かる

 星座の匂い

 満月にひそむ

 刺客

          U

           

 炎のドレスが

 揺らめきながら沈む

 きっと

 みえない隕石の核があるのだ

 荒々しく攫むと

 水面に掻き消える

 

           V

 

 沖の岩陰に

 人魚が戯れている。

 耳を澄ますと

 波の音ばかり・・・。  

   

           W

 満月の下を

 花で飾られた馬車が通る

 道の向うに

 波が白く砕けちる

 略奪された花嫁の

 乱れた裳すそのように

                 (10/11) 

               

  悪党は行為を、悪人は存在を裁かれる。

善人は自らを裁くことで全体に関わろうとする。その傾向が本質的で真摯であれば、宗教的にならざるを得ない。

 死後は極悪人のためにあるのではないか。 

   

                  (10/12)

  果報者の我物顔の振舞いは様々だが、不幸を分かち合う輩の多くはどうしょうもなく似てしまう。

                   (10/13)

  他人への思いやりに欠けた人間が何人集まろうと物の数ではない。他人を思いやることで自分自身となるのだから、自分自身でさえないことになる。自分自身でさえないものにどうして他人が存在し得ようか。

                    (10/14)

 負け犬もそうでないものも、小便の高さは同じである。

                     (10/15)

 エゴイズムが「原型」を止めない位、全体意思となるとき、他者として見出されるのが「神」ではないだろうか。エゴイズムの亡骸の上に神は降り立つ。

                     (10/18)

      <縁の下の力持ち>

  蜘蛛が来て巣を張る

  縁の下はじめじめとしていて暗い

  漸く陽の目を見たと思ったら

  家屋倒壊である。

     

     <二重スパイ>

  悪平等は三歳の知恵

  弱みを握って強くなり

  凹ませた分だけ持ち上がる

  頭と尻は隠せたがヘソが丸見え。

     

       <祈り>

  あなたのお生まれになった日が

  私の命日となりますように

  ですが神様、黒装束で罠に掛けないで

        下さいまし!

  冗談は別にして。

    

           <三本の矢>

  俺たち三本の矢は

  弦を張り、力一杯曲がる。

  へんに真っ直ぐな奴を

  使い捨てに遠く飛ばすために。

    

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   

     

   彼女のえくぼは妖精の村だ。

   髪かきあげる手に山脈のベルが鳴る。

   星の匂いを撒き散らす彼女の散歩は

   月面に乗り上げた人魚の紙風船である。

   

   彼女の破れた手風琴

   小鳥のような可愛らしい心臓は

   塩漬けの花文字

   彼女の丈夫な帆柱を風に大きく撓ませ

   回転木馬は鮭の如く踊る!

   細い指にほどかれた河

   彼女の煙る夜のすべての枝から

   彼女の薔薇の頭は燃え堕ちる。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   指をふれると

   崩れる砂山

   波に攫われ

   散り散りな薔薇の館

   明るい瞳の森

   玲瓏たる虹の止まり木

 どちらかが絶対に正しければ、事故など起こりようもなかった。自分だけ正しいと主張する人は、原理的矛盾に陥ることになる。何故なら、事故はなかった、と言っているようなものだから。

 法規上の正しさは、法規がこれを証明し、

 運転技術上の正しさは、運転技術がこれを証明する。

 曖昧な正確さとうやむやな逃げ、それらの違いは根拠のあるなしでしかない。

    

 先ず、真ん中に線を引いてから、お互いの言い分を秤にかけて、過失割合を決める。事故であれば当然の手順であろう。ところが、はなから自分が100%正しいと決めつける人もいる。これでは相手が些か犯罪者めいてこないか。と言うより、この開き直りこそ確信犯の厚顔無恥とは言えまいか。この如何わしい過剰防衛と悲しむべき誇大妄想が顧客主義を逆手に取っている。このような人たちをして、「保険制度」は人格を根から腐らせてしまった。なにしろ、将棋盤の裏から手が出て、いきなり王手である。これでは名人戦も形無しだ。「模範解答」に、無理矢理、問題を捩じ込んで背筋を伸ばす。なんとまあ安直な結果主義。アンチョコ見るな見るな、○×式の受験戦争ではあるまいし。願わくは、弾き飛ばされた分銅が、尊大な女王様の頭を直撃して粉々にしませんように。

 

  

   公式主義と現実主義

 1+1=2  1+X=2  X=1

 どうです。文句なしでしょう。

 大ありです。

 答えが2であればX=1で間違いありません。

 ですがXが、仮に2であれば、答えの方が間違っています。

 解りきった答えの証明が問題なのではなく

 問題は問題解決それ自身です。

 暇つぶしのパズルなんかではありません。

 訴訟は訴訟の数だけ種類がある、とは敬愛する弁護士の弁。

 弱腰になればパターンが見えてしまう。

 

  コラム(2006/11/28)   

     −この指と〜まれ−

      ×××火災保険株式会社  H 様    

  大変、お世話になっております。
 過日、FAXさせて頂いた事故発生時の概略図、−現場の「位置関係」と「状況判断」を忠実に再現した積もりですが、先方の確認はとれましたか?それは其の侭、当事者間の「証言の真実性(信憑性)」を測る大切な物差になる筈です。

 また、「言語の使用法」を誤ると証言自体があやふやなものとなりますので、取り敢えずキーワードの「定義」から始めたいと思います。

   とまる  とまった
          とまっていた どちらも「静止状態」ですよね。

その静止状態 は
A 停止 瞬間(二動作は不可能)/ブレーキ操作、警告等。
B 停車 @待機/信号待ち etc.
       A緊急避難
C 駐車 駐車場(定位置安全圏)

そこで消去法により、今回の場合
C は論外、B-@ の待機でも、B-Aの緊急避難でもありません。
従って「静止状態」はAに該当する。何故なら・・・
<待機>は「先方のクルマの目的完了後に行動開始」するための方法。
先方の目的完了を妨げる位置では成立しない行為。
<緊急避難>は「先方のクルマの目的完了を妨げる位置関係」にあれば不測の事態の第一原因となる。従って警告義務があり、この義務を果たすことで得られる権利です。

−本当に「クラクション」を鳴らしたのですか?


 もし仰る通りなら、私は不正直かつんぼのどちらかでなければいけませんよね。 もし、私がつんぼでも不正直でもなく、『貴女』が<そんな気がした>だけであれば、<二動作が不可能な瞬間>の判断であったことになり、あなたはその時、ブレーキを踏んでいたのかも知れない。その場合、「静止状態」は<A=瞬間の停止>以外には考えられません。 もし、ブレーキすら忘れたのであれば、満車状態にも拘らず右折進入し車道から歩道へ乗り上げたことになり、どう考えても<投げやり状態>でしかなく、そんな辻褄あわせなら、もっと怖いことになりますよ。その場合は停車とは言わず、 「判断停止」でしょう。始末が悪いなあ。波打ち際でも、もう少し分別があります。幸い通行人はありませんでしたけれどね。

 『貴女』が最初言われたように、「クルマの流れを妨げるていることに焦りを感じ、緊急避難が精一杯であった」のであれば、間違いは誰にでもあること、決して咎められたりはしません。そこはお互い様、前門の狼、後門の虎、の喩もありますからね。

 「危ないですから黄色い線までさがって、全部降りてからご乗車下さい」まさか聞き逃す人はないと、私は思います。これはルール以前のマナーの問題です。

 針小棒大の平和ボケは、硬直した制度疲労の裏返し、国威発揚のために、<良心>を思考の壁に書き捲くりましょう。うわべを繕うだけの、ご都合主義、便宜主義はシロアリのように国の柱を食い亡ぼします。それはまあ、兎も角として・・・。

 この指と〜まれ。ほおら、止った。でもね、ご覧遊ばせ。わたくしのマニキュア、少し曇りましてよ。     かしこ             

  

   

   メモ・ランダム 31 (2006/11/27)

 

 町に出るなら、殿方よ、虫眼鏡をお忘れなく。   

  爆撃でいつクルマごと吹き飛ばされるかも知れない。−これが戦争。

 接触事故があるたびに、手帖と虫眼鏡(・・もしかしたら聴診器も)を持って警察官が駆けつけなければならない。−これが平和。

 井の中の蛙、大海を知らず、とはこの事か。 

 

   偶感

 生は苦悩の花火であり

 死は快楽の寝床である。 

 怨念に物差を当てることが創作意欲を刺激する。

 夜闇に怨念の花が崩れる。 

 

   コラム (2006/11/23)

   

   −ところてん式駐車場−

 ゴルフやビリヤードのスーパー・ショットには種も仕掛けもない、計算通りのことが起こったに過ぎぬ。だが、素粒子の世界はフラクタル、不測の事態でてんやわんや、ハイゼンベルグの「不確定性原理」によれば、約束事が成り立たない。

 例えて言えば縁日の定番・ガラポン抽選会。赤や白の当たり外れは、籤運がお祭り気分に花を添えるだけのことだ。しかし「不確定性原理」に機械的な偶然はない。人が球を選ぶよりはやく、球が人を選ぶ。その逆も真。念力とか相性とかが働いて干渉し合う。ヘンな話、籤運も人柄次第なのかも知れない。

 宇宙は機械音に包まれてはいない。モーツアルトを聞いて育った栄養価の高い野菜の話は有名だし、キルレアン写真などと言うものもある。下手な彫刻家の鑿は石でも痛がる。良く出来た木彫りの仏様は霊験あらたかだ。この心の触れあいを天地有情と言う。

 「何処を直せばいいのですか?」−この一言が災いして、接触事故が警察沙汰になった。自尊心を逆撫でしたらしい。顔色を変え、わが子を抱きかかえて病院に駆け込み、「鼻風邪の薬をあげましょうね」と軽くあしらわれた時の母親のあの気持ち。子連れのそのご婦人は、別誂えの特別室の儀式こそ教育で、のべつその現場とは思わぬらしい。それにしても、混雑を極めた祭日のパニックの山が盛り上がる中で、お母さん!もう、いい加減にしてよ。位のことは言えないのかな、この子は。偏差値は法規で掃き捨てることが出来るかも知れない。しかし、頭に聴診器を当てるのはどうも気が引ける。だから、もう一度、聞き返えそう。「何処を直せばいいのですか?」 怖いのは地震、雷、ご婦人のハンドル捌き。

 怖いのはブッシュ、核、金正日、月光仮面度100%の野次馬根性。後ろ向きであろうと関係なし。「入るのはあのクルマが出てからにしましょう」−クラクションは聴こえなかったが、貴女のクルマの囁きはしかと耳に届きましたよ。

  コラム(2006/11/15)

   −襲名病− 

 ひとの弱みにつけ込んでイニシアティブをとり、姑息な罠を仕組んで突き放す。当面のわずらわしさから身を引いて、問題のすり替えやらリスクの回避やら、口角泡を飛ばして、持ち前の屁理屈だけがしゃしゃり出る。突っけんドンで粗野なばかりか、一石二鳥の夢には眼のないイカサマ野郎がいるものだ。ハイエナよろしく、死臭を嗅ぎ回り、社会規範も何処吹く風と、自家薬籠中の煎薬が幅を効かせる。これでは競争社会の名が廃る。もう一度、鍋の底から洗い直してみないことには。

  寒々としたでかい手が、人間諸権利を後生大事と抱え込み、頑固一徹の縄張り意識で、形振り構わず待機中。−やれやれ、遣り繰り三年、罰八年、了見違いも好い所。だって、あれじゃあ、どうみても取り込み詐欺でしかないもの。どっこい、悪銭底を着かずと居直る程の律儀者。自分の骨を埋めるとなれば、あのくらいシャベルの扱いも慎重でないとね。

 各々方、油断召さるな。自由は万民の宝だが、無防備の裏返し。隣人愛は郭公の巣、いつ根っこから腐り始めても可笑しくはない。奴さん、元を断ち、結果がすべてとしたり顔。泥棒には花を、割を食った者には鍵を(金庫ではない、腹黒の臍にぴったりの合鍵を)−何はともあれ、自己補填。−大義名分は<後の祭り>の蔑称である。梯子を外され、自分から進んで磔になる奴。不正を束ねて火を放ち、全身に大火傷を負う奴。途方もない熱血漢も居たものだが、後始末はコンクリート・ミキサー並みの大型保険で。

 たった今、石橋を叩いても渡らない男が、背中を小突かれ足を滑らせて溺死した。叩かなくとも開くのが地獄の門である。もしかしたら件の無責任男かもしれないぞ。

     ハイエナたちの午後 (25:00)

 

     コラム(2006/11/14)

  −天才と核に国境はない−  

 「拉致被害者とその家族を救出した功績は大きい。これだけで小泉内閣は歴史の一ページを飾るに相応しい」等と手離しの讃めようだが、「政府の最も大切な役割は国民の生命、財産、自由を守ることだ」と正論を畳みかけた上で、「小泉・パフォーマンスは誠実さの証」となって、さらにテンションは上がる。これでは贔屓の引き倒しもいいところだろう。後任の安部首相に<美しい国、品格のある国、日本>の建設を期待して、雑誌「正論」11月号の編集後記は麗々しく結ばれていた。

 今更、建国の理念もないではないか。二千年の歴史を誇る皇国精神が、何者かの手で「起爆装置」となって点火され、見るも無残な一億総白痴化の残骸を曝け出すに至った。その事実を忘れるわけにはいくまい。戦後の灰の中から、聖徳太子の取り澄ました顔が山と積まれ、それこそ音を立てて崩れ落ちたりもした。かって<美しい国、日本>では金で買えない物は何もなかった。夢よ、もう一度とは言わせまい。提灯記事やお座なりの言動が許される筈がない。

 さて、この創刊33年記念号、気になるリポートがあった。「北朝鮮のミサイルも核も日本製だったのか」−起草者はジャーナリストのウラジミール。かなり草深い奥の院からの情報リークだが、詳しい紹介がないので、何処の誰かは分らない。今をときめく国際ジャーナリストの端くれであろうか。

 敵の敵は味方だが、見方によってはそうはならない。グローバリズムの正体見たりエゴイズム。−みんな自分可愛さに泣きをみるのだが、最初と最後に二度笑う者もいる。国民とは一体、誰のことなのか?些か奇妙だが、こんな素朴な疑問を抱かずにはいられない。どうやったら国際感覚のイロハを身につけることが出来るのか。「阿呆はアポせよ!」は悪名高いショウコウの御託宣だった。マッド・サイエンティスト集団が特定の神の名のもとに、政治的野心を抱くと<隔離乃至悪用>される。反動分子の過激な行動原理は、常軌を逸した「ユートピア精神」にこそあるのだ。理想は現実と同じくらいに恐ろしい。ナモサダルマフンダリカソタラン。死んでも命がありますように!・・・。

     正論 (11月号)

  コラム (2006/11/13)

 −健康も病も恋の所産−

 トリノ、シシリア、パレルモ、ロマンチックな地名に思わず心が浮き立つ、風光明媚な地中海都市の景観がスクリーン一杯に広がる。映画「輝ける青春」の前編・後編、併せて6時間に亘るロング・バージョンの一挙放映。権力の腐敗とコンミューン・テロの渦巻くこの壮大なドラマは、名作「ゴッド・ファーザー」に対抗して作られた。イタリーの緊迫した社会情勢の中で懸命に生きぬく恋人たち、その仲間たち、情熱的なラテン系民族の生き様が実に生き生きと描かれている。

 社会主義思想は紙の爆弾だが、家族は時に痛ましい花のように開く。物語の主人公で、中流家庭の良心の権化のような長男ニコラと、党活動に挺身するその妻を巡って、家族三世代に渉る様々な絆が、色鮮やかな人間模様を描き出す。老いた母を失意のどん底に落し入れ、溺愛する姉に人生の深い淵を覗かせた、繊細・多感な異端児・マッテオの自殺は、理想と現実に引き裂かれた規律社会の深刻な矛盾を露呈している。イタリー病は「思想」を突き破る生命力によってしか回復しない。弟の死に打ちのめされたニコラだが、精神分析医として、この私的試練を乗り越え、個々の患者の人権擁護に当たり、硬直した医療と社会の旧弊を糾してゆく。

 夫々の歩む道は異なるが、愛の使徒として「輝ける青春」を謳歌する精神は同じである。マッテオは「全て世は事もなし」と、ブラウニングの詩句を口ずさみ、祈るように生涯を閉じた。そんな彼は希望の種を残してもいた。彼の死後、隠された愛の物語が芽吹き始める。美しきかな人生!素晴らしきかな家族!

 何もわざわざ現地観光には及ぶまい。スイッチ一つで感動のシャワーを浴びることが出来るのだから。

   テレビ朝日 (20:00〜26:00) 

 

  メモ・ランダム 30 (2006/11/11)

 火の中、水の中の荒行を終えて、漸く人は静かなものとなれる。怒りと悲しみの果てに諦観の輝きを身に纏う、己自身が一つの星となるのだ。星座は共感指標としての壮大なテレパシーの世界である。

 誤解を恐れていたら最初の一言はない。誤解が誤解を生むことで深さと広がりが生じ、一巻の物語にまとまる。迷宮のミノトウルスは作家の心臓のように動いている。

  メモ・ランダム (2006/11/10)

  言わずもがなの事柄に一々念を押すのは残酷で、当然のことを言い切るのは非情というものであろう。

 だが、相手の痛みを理解して助言するにはやさしさと勇気が必要だ。ここにおいて始めて真の厳しさが要求される。 

  

  メモ・ランダム 29 (2006/11/06)

 マキャベリーには透徹した現実認識がある。彼は「人は親を失うことよりも、財産を損なわれることを恐れる」と分析した上で、為政者の統治権を規定する。人間の本性一般を悪と定義したからと言って、彼が冷酷非情ということにはならない。本性を其の侭、容認したわけではなく、「観念」の鞘に収めることで、剥きだしの欲望を諌め、混乱を未然に防ごうとしただけだ。彼にとって事実を正確に知ることが力の源泉なのだ。猛獣使いのように飴と鞭を使い分ける。

 人はいかに生くべきかを学ぶことと、生きて学ぶこととはまるで違う。その違いが現実の生である。「観念」なしに人は何物でもあり得ない。

 多くの場合、その形而上学は「観念」の外側をめぐる旅であった。具体の侵攻により言葉の世界は変質する。  

   コラム (2006/11/05)

  −越前の守の置き土産−  

 人と人との関係が人間性だが、人を金に縛り付ける、人と鬼の関係は何と呼んだらいいのだろう。麗々しい書面に嫌と言うほど向かい合わされ、遣り切れない思いをさせられた最高裁判事が退官に際し、法廷に喜ばしい置き土産をした。この法衣を脱いだ滝井繁男氏の益荒男ぶりが話題を呼んだ。

 元々、三歳児でも分りそうな珍事なのだが、細部や特例の針の筵に神妙に座らされて、祭壇の聖水を浴びせられる儀式がある。ここで、「現状に即して余りまともとは言えない」と判決を覆し暴利を禁じたことが、驚天動地なのだそうな。暗黒街の掟破りにも似たヒロイズムとも言われる。何はともあれ、現状則と言う法律の本義に立ち還り、漸く一歩を踏み出したこと自体は允に慶賀の至りだ。

 30%弱の「グレーゾーン金利」の撤廃で、金庫番が千手観音のような後光を放ち始めることだろう。それがしんどければ最初から往生間違いなしの念仏など、強要しないことだ。死んで浄土に生まれ変われるのも、大型保険を掛けた自殺幇助者の懇ろの供養あってのことだろう。いたちごっこに鼠捕りとは、現役の閻魔様でも思いつくまい。天晴れ越前の守の快挙である。

 

     毎日新聞 (11月5日)

 

  メモ・ランダム 28 (2006/11/04)

 片足を奪われ義足を余儀なくされた者と、片足を奪い義足を嘲笑う者が仲睦まじくなれる筈がない。この平和主義の残酷な欺瞞性を、未だに理想と呼ぶ支配層がある。  

  コラム(2006/11/02)

   −嘆きの貴公子−

 いじめ大好き。冗談を飛ばした積りが、いじめの効用に思い至るや俄かに口を噤む。そこには、残酷な世相を無意識に正当化せざるを得ない社会人としての反動があった。所謂、スケープゴートである。自己疎外を転嫁して他人を嬲者にしてストレスを解消する。そのミニ版が義務教育の場で多発した。殆どが、教育以前の「本能」の仕業で処置なしなのだが、このところ、事態は深刻を極め、わざわざ国会審議にまで及んだ。早晩、それこそ膨大な予算がらみで生物学の研究室に持ち込まれざるを得ないだろう。

 ところで、マウス実験にしろ、DNAの改良にしろ、一朝一夕には解決しないのが、この問題の泣き所である。これまでは道義一辺倒で偽善的に対処し過ぎた嫌いがある。いっそのこと美学的な直感知で、醜態を捉え直してみてはどうだろう。トランプの婆抜きゲームか、守銭奴症候群にでも擬えたら、即効力がありそうだ。莫迦ばかしくて腹も立つまい。

 それにしても阿部総理の教育論、昭和の妖怪を反面教師と見立てるのはいいが少々生真面目過ぎはしまいか。「こんな生理的気晴らしも出来ないような人間は信用出来ん。日本の将来を任せられるか!」−なんともはや驚いたことに、これが敗戦のリスクにどっぷり浸かったA級戦犯の獄中における救済策。<孫突く>の語源は意外なところにあった。

    NHKテレビ (国会中継11/01)

 

   メモ・ランダム 27 (2006/10/30)

 決め事は守らなければならない。これは道義的な責任においてそう義務づけられている。決め事だから守るのではない。従って、道義に反する契約は守るべきではない。これは倫理学の初歩である。スケールを持つ手とそれを測る眼を疎かにしてはならない。 

 

    マラルメの肖像

 

  満月が鏡のように罅割れて

  精霊の火の粉が降る。

  沖に帆を張る船は

  半コートの女のように霞む。

  風の掌で

  一斉に北に羽ばたく波・・・

  記憶が白い柵を巡らす

  影の国の王子   

 

   メモ・ランダム 26 (2006/10/26)

 能力主義を誤って忖度してはならない。個々の才能は人それぞれの性格が然らしめるものだから。底の浅い競争社会で屡、見失われがちなこの天性、本当はカインの額の徴よりも明らかな態度言動に読み取ることが出来る。一先ず成果主義を疑ってみてはどうだろう。一背馳に塗れた、責任の取り方にこそ才能の有無が現れる。

 磁石に吸い寄せられる金屑と、掃いて捨てられるだけの紙屑がある。バブルが弾けてよりこの方、弁護士といえば、そのどちらかでしかない。冗談とも本気とも付かない、自分隠しの裏技が、かたやタレント、かたや時の権力の腰巾着となった。多少ましなところでは、毒にも薬にもならない無料相談くらいであろう。こんな現状では自主責任は無限責任と同義になってしまう。秤に掛けられるのは金塊だけだ。  

 

  メモ・ランダム 25 (2006/10/24)

 平行線は無限の彼方では交わり、かつ交わらない。どちらも正しいとすると何も語ったことにならない。どうやら、こちら側(有限)の世界が慮ることではないらしい。死後の世界もそんな風に現世の価値を無効にしてしまうのかも知れない。この世界で幾ら目くじら立てても、一旦、白紙に戻し、全く新しい価値観に立脚しなければならないとしたら、・・・寧ろ、こんな言い方をすべきなのかも知れない。無限という言葉を実感的に把握出来ないから、我々は有限なのだ、と。もしかしたら無限の語義解釈自体が間違っているのかも知れない。この世では無限も有限の一つに過ぎない。

  メモ・ランダム 24 (2006/10/23)

 男というものは青春を一生引き摺って生きていくものらしい。だが女の場合は、全く別のものになってしまう。

  音楽を愛する人は、自己中心的で鼻持ちならないか、単なるセンチメンタリストのどちらかでしかないが、物語を愛する人は、確実に誰かを愛する人である。 

 

    コラム(2006/10/09)

    −手の鳴る方へ−

 北朝鮮で核実験か? ショッキングなニュースが流れたが、我国でそれらしきものを感知したのは地震計の針だけである。実験成功が誤報でなければ、ならず者国家は大国並ということになる。有事なら大本営発表はなし、実弾を搭載したミサイル攻撃であれば「真珠湾攻撃」と同じ扱いだ。しかし、この「安全な自爆」宣言、日中韓の国威を脅かすには充分過ぎた。我が民族は命がけである、と言わんばかりだが、平和あっての命でもある。外交上の均衡の破れが、マグニチュード3.5で済めばよいが。

 何はともあれ世界の核・アメリカである。パニックに陥った報道陣の間でアメリカという言葉が口早に数え切れない位飛び交った。しかし、その技術もさることながら、本音はアラブの油田と同様、金正日の足元の天然資源・ウランだろう。売らんよ、とやられたわけだ。火の手の上がる所に資源あり、「広島」「長崎」で灰になったのは、アジアの人的資源、大和魂である。この失われた20世紀の遺産こそ、何はともあれ平和利用のために、再発掘されねばならない。

      <TBSテレビ10/09>

 「契約違反」は見たとおりだが、「違反契約」は解りづらい。両者は「証拠」と「証明」、あるとおりのものと、あるものの理由付けを特定することの違いである。この消去法による論証が正しいかどうかは、最後まで解らない。つまり、契約行為の動機と、その周辺の因果関係が複雑だからである。審議は自白と黙秘権の間をいったりきたりする。この場合、裁判の決め手は決め手がないことである。

   感想詩録(T)

 <真実>はひとを自由にする。

 仮令、死と向かい合うことになろうとも

 愛するに充分である。

 <真実>は世の光だ。

 そこに信仰の道がある。

 ひととしての在り方は 唯、一つ

 この道を歩むこと。

 死は一時の試練

 誰もが一度はそこを通らねばならぬ

 心の暗闇である。

  「昏睡状態に麻酔を掛けられたら

  こんな夢も見るに違いない。

  これではまるで、愛と眠りによって

  二重に施錠された石牢の死刑囚だ。」

 主は光あれと言われた。

 犬に腹を立てる私たちの方が間違っている。   

 

   コラム(2006/10/02)

    −新政権の経済課題−

 リスクのない成長はない。痛みのない改革も然り。問題は誰がリスクを負い、誰が痛みを感じるか、であろう。得られた結果が、新ルールの適用で、実質的な変化のない階層間の落差の拡大に過ぎないのであれば、それは改革どころか、鼻持ちならぬ現状強化でしかない。弱者はさらに弱者となり、お互いが傷口を舐めあうだけで、強者の思いのままになってしまう。これではまるでリスクや痛みは地位や財産を失う通過儀礼のようなもの。資本蓄積は、磁石さながらの針鼠。大方の労働力は枯葉のように蹴散らされるだけだ。共食いまであった小泉・弱肉強食内閣。ハンドタオルはポケットの数でも足りなそうだ。

 しかし、何と感動的なことだろう。柄杓星は天の一角を占めて、今も不動である。しかも、件の磁石の針、抛って置くだけで必ず北を指す。そもそもの話、イノベーションもリストラも、本来の使命は資本と労働の等価交換。生産体制の合理化はその成果である。弱者の味方というのは、本当はそれ程難しくはないのだ。ほんの少し、肩の力を抜き、気持ちを楽にするだけでよい。水は高きより低きへ向う。磁石の針は地球の良心でもある。

 伊藤元重氏は、医療その他、非製造業部門にスポットを当て、「負の資産」を有望産業と見直すことで、逆に経済効果が期待出来ると、阿部新政権にエールを送っている。経済循環の車軸が折れても、ヒューマニズムの輪が歪んだことにはならない。静かな池に幾つも生じる水紋のように、先ずは、爽やかな論陣が張られたことになる。

   読売新聞<地球を読む>(10/01)

 

    コラム (2006/10/01)

  −字幕も火を噴く−

 「そいつは単なる噂に過ぎない。事実とは無関係。ところで、大抵は噂の方が良く出来ているものなのだ。」 (アープ)

 「生と死はそんなに違うものではない。死神はいつも目の前にいる。幸せはあるにはあるが、この世に向かない人間がいることも確かだ。」 (ドグ)

 ケビン・コスナー主演の壮大な西部劇「ワイアット・アープ」は、このほかにもスパイスの効いたセリフが次々と字幕に現れる。そのパンチ力は中々のもので、ストーリーに深みを与え、画面に緊迫感を呼び起こす。何かの本のパクリにしては、落ち着きが良すぎるくらいだ。これも演出の妙であろう。他にも名画のパロディを思わせるシーンがふんだんに盛り込まれていて、ファンの深層心理を擽る。エンターティナーが面白おかしくあれば良い時代は終わった。これは、一頃、当たり捲くったマカロニ・ウェスタンと共に映画史上に残る傑作である。1994年の製作だから、9.11事件とシンクロして鑑賞出来ないこともない。

      <ワーナーブラザース/1994>

 

     コラム (2006/9/30)

   

   −ノブレス・オブリージュに奇策なし−

 「五年後」の話であれば、幾らかは信頼が持てそうな気がする。なにしろ、お先真っ暗で、小泉政権の現状は全くもって、わけのわからぬことばかり。踏み台を引き寄せ、腕をひろげれば届きそうな処に「果実」がある。その踏み台をさして五年後と言ったまでのこと。それとも、ああ、情けなや!五年はとても持たないとでも言うのだろうか?五年後の目的に価値があり、その方法に意味があり、その結果が然るべく善でないとしたら、今日只今の私たちの悪戦苦闘が何になろう。

 <木を見て森を見ず>は若年の気概への警句である。感慨ひとしおの老年の勲功に影を落すこと等、金輪際、あってはならない。少なくともこの私には、卓越した経営理念に培われ、人も羨む地歩を得た、叩き上げの創業社長が、自ら下した判断とは到底思えない。温室育ちのご子息への気配りの為であれ、へんに力づくで正体不明のなし崩しの奇策の為であれ、もし、正念場を踏み外すようなことにでもなれば、五年後と言わず近い将来、必ず禍根を残すことになるだろう。願わくば、危難に面し、さらに兜の緒を締めよ、手綱を弛めるな。智謀の人たるも、姦計の徒となるなかれ。

      <本社会議室9/26>

     

    みえない木

みえない木に枝を挿し

根が生えたと悦ぶのはよせ 弟よ

花は咲かないし

実を結ぶ気配もない

亡父の背中から

刺青のように家紋が炙り出され

おまえは慌てて

毒針を捨てた

藪の水溜りで泥を被る

潰れた空き缶

日没の空に

いつわりの凧が揚がる

風の幕間には いつも

やすらかな母の寝顔があり

その傍らで 私の渇きは

水が澄むまでむなしく立ち尽くす

          

   コラム (2006/09/22)

  −潜在能力=LOVE−

 「不思議大好き」「おいしい生活」の名文句で一躍、時代の寵児となった糸井重里だが、こいつ、ここまで常識外れのお調子屋とは知らなんだ。よせばよいのにテレビで話題を浚った「手鏡教授」を、態々俎上に乗せて、「これこそ歴史に残る大事件である」等と仰天発言。もしかしたら、洞穴のような鼻で女学生のパンツの匂いを目一杯吸い込み、抜き取った鼻毛が、この二本立てのキャッチコピーでござい。−てなわけ?それにしても、ご大層な言草ではないか。対するホスト役は茂木健一郎氏、この時程、貴公子然と輝いて見えたことはない。いけ好かないスカンク野郎の取っておきの一発、「潜在能力=LOVE」には、なんと注釈まである。「命が愛を包むのではなく愛が命を包む」。クエ〜〜〜、臭いのなんのって、浮いたお猿さんのご高説もここに極まれり。マスコミの臭み止め博士と、少しは世に聞こえた名物教授も、妙齢のアシスタント嬢共々、これに懲り、番組の降板を早晩願い出るに違いない。

 花形コメンティターの脳天気なはぐらかしに、スタジオは絶句して宇宙大の疑問符を抱え込む。主客顛倒のサンプリングで、その場を貶めたことにはトンと気づかず、進んで晒し者になるのだから見上げたものである。

         <BS日テレ9/21>

   コラム(2006/09/21)

 −チャベス大統領の米国批判−

 国連総会と言えば外交の桧舞台。よほど腹に据えかねることでもない限り、こんな暴言は飛び出さない。前日のブッシュ大統領の演説を受けて、一般討論の席上、名指しで「悪魔」呼ばわり。この一小国リーダーによるドラマチックな代表発言、余りにもドラマチックであったがために、現実感に乏しく、演壇を叩いた握り拳よりも速く、会場全体の当惑が鼈のように首を窄めた。所要時間は23分程。米国連大使は閉会後の記者会見で、皮肉交じりに、こんな感想を披露した。「あの続きはニューヨークのセントラルパークで聴くことにしよう」

 窮鼠、猫を噛む、一幕物のあっけない喜劇と言えばそれまでだが、イラクのスカッドミサイルどころの話ではない。楽屋裏には、確かに戦禍が燻っている。「帝国主義」「人民搾取」「武装民主主義」「悪魔が昨日ここに来た。奴は世界の袖を引っ張っている」等々。どうやら実弾は一通り使い果たしたようである。

 ところで、と。地上戦にしろ空爆にしろ、標的が張子の虎のお腹ではねえ。

       <読売新聞9/21>

 

   メモ・ランダム 23 (2006/09/20)

  使い捨てや食い散らかしの文明に未来はない。寧ろペキン原人への撤退だ。こころと物の拘りを通して記憶の保存様式が生まれる。この蓄積が文化である。我々はアカシックレコードの出先機関と言えなくもない。無自覚な文明の不満と憤りが、時たま牙を剥くのは自分自身の本性に対してである。彼らの立ち止まる処に光は差さない。彼らにとって脳の皺は、神の嵐の痕跡ではなかった。欲望の檻に閉じ込められた自尊心、我と我が髪を掻き毟る手で、ずたずたに引き裂いた囚人服のようなものである。

  メモ・ランダム 22 (2006/09/18)

 手加減なしの情報操作やら、姑息な裏話やらで、本筋を歪め、自分の立場を何処までも正当化しょうと、嘘八百はエスカレートするばかり。これでは天罰の入り込む隙間もない。しかし、現場には必ず神の指紋が残るものだ。幕間で舌を出すカメレオンも、アンコールでは舌を巻かざるを得まい。 

 なんなら、してやったりの間抜け面に、へのへのもへじと書いてやってもいいぜ。最も、やり直しが出来たならの話。自分に似た顔を鏡の外に探そうとした哀れな奴め。

 贔屓の引き倒しが、世間を暗くしている。目隠しを取ろうとすると、手を噛まれる。

 不幸には信じられないドラマがあるが、幸福は平凡な暮らしの中にしかない。これがお茶の間の滑稽なしくみである。

  コラム(2006/09/17)

  −やせ過ぎモデルの規制広がる−

 世は挙げてダイエットばやり。オードリー願望やツィギー狂の女性が急増中。リバウンドあり、突然死ありで、拒食症や病的飢餓の食事障害は眼を覆うばかりだ。遂に閾値を越えて深刻な社会問題となり、お上は逆切れ、現状に楔を打ち込む議案が採択された。この秋、ロンドンのファッションショーを脅かした、やせ過ぎモデルの規制がそれである。まるで元凶退治と言わんばかりだが、カノンの数値化で人体の健康美を割り出し、今後は科学のものさし(?)でトレンドが決まると言う。マドリードで発火、ファッション界の大御所・ミラノにも飛び火、ニューヨークや東京にとって対岸の火事では片付くまい。

 それにしても、なんと理不尽な魔女狩りであろう。今を時めくスーパーモデルたちが、美の殉教者として次々と締め出される舞台は壮絶窮まる。この悪法、ダブルバインドによる怨念の美学でしかないとしたら、むしろ病的なのは体制側の老婆心。かって、いみじくもマラルメはこう語った、「女神の裸体は女の名誉を毀損する」と。ランボルギーニやフェラーリの改造が一般道路向けなら何をかいわんやである。

         <時事通信9/17>       

 メモ・ランダム 21  (2006/09/16)

 間違った設問によって正しい解答を導き出そうとしているのではないか? これは罠ではないのか?仮にDNAの鑑定で、論理整合性を満足させる結論が得られても、論理的破綻以上の試練が待ち受けているとしたら?即ち当面の混乱にまさる不幸な事実への配慮によって、××の沈黙は、現時点では最も正しい選択と言えるのかも知れない。

 何のことはない。気の弱い鼠が猪の背中にしがみ付いて、自分が走り廻っていると思っただけだ。夜郎自大とはこのことか?

 背中を丸め、鼻腔を開き、頻りに咽喉を鳴らして近づく男が居たら気をつけろ。そいつは国税庁あがりのアウトロー。値上げ寸前の消費税対策(?)でのっそりお出まし、処かまわずトンネルを掘る。傍目に滑稽な挙動不審は戸板の下に隠せても、えげつない悪臭ばかりは始末に負えぬ。房総一帯が失神エリア。スカンク同様、鼻から頬っぺたが真っ黒で、お世辞にも、ご婦人向きの働き手とは申せまい。案の定、その逃げ足の速いこと!しかも手前の取り分だけはちゃっかり課税を免れている。まさか臭いに縄を掛けるわけにもいくまい。

   コラム (2006/09/15)

   −死刑の景観−

  

 聖者?狂人?犯罪者?三者択一的なアレゴリックな裁判が、その何れとも見分かぬままに中断、第一審の判決が消去法で採択された。無感動、しかも不可解。くしゃくしゃの髪にベルゼベブの蠅がとまった。もはやなにものでもない松本被告に、激震が走った。信者にとっては神話誕生の瞬間である。思わず鼻を抓ませる透かし屁は、畳から5センチほど、胡坐座の男の尻の穴を持ち上げた。この気の遠くなるような倒錯者の背景は永久に闇に包まれる。虚無に穴を穿つ沈黙。まるでかすり傷のような死刑宣告。悲しみに閉ざされたままの遺族やサリン被害者こそ不条理の傷ましい聖者なのであり、遣り切れない物語の主人公たちでもある。

 「曰く不可解」−藤村操の<巌頭之感>が、未だに天上的な余韻を残しているのは、その潔さが身の上の天性の詩人だからである。無理は承知で引き合いに出したものの、余りの違いに愕然となる。その猛毒は時代の根を腐らせる。最終解脱者の名の下に、これ程、世間を知り過ぎた教祖も珍しい。縄文以来の悪魔を前にして、一体、誰が「へいせい」でいられるか?

    読売新聞 (9/15)

   メモ・ランダム 20 (2006/08/30)

  卓越したスピーチは一般論でありながら、個別的なメッセージになっている。教師は(1対50)人の教室で、この秘訣を心得ている。テキストは想像力の省エネである。

   コラム (2006/08/16)

  −変人は紋付袴がよく似合う−

  8月15日。小泉首相は靖国神社の公式参拝を決行。事大主義を逆手に取った、卑劣極まりない戦法である。外交手段と儀式慣例とは対立するものではないが、主義主張は現実的な問題であるから、場合によっては両者の価値観が混在してしまうことも在り得る。単なる儀式であれば、外交上も譲歩出来るし、現時勢での見直しは当然である。靖国神社には皇国精神が今も生きている。その歴史的事実として英霊が祀られている。外交の袋小路から、その眼を逸らすようにして、自己陶酔する。一体、何のための<捧げつつ>なのか?世界の多軸構造の力関係にニュートラルな平和主義は幻想に過ぎないのか? 隙間だらけの講釈と、矛盾をものともしない変人振りは、むしろ紋付袴の方が似合ったのではないか。国家規模での説明責任は個人レベルの弁解手段によって蹂躙された。

      読売新聞(8/16)

   メモ・ランダム 19 (2006/08/10)

 寝顔が怖いぐらい安らか過ぎることがある。まだ、逝かないで欲しい、醜く少々意地悪くても構わない、耳と眼はこちら側にあって欲しい。聴こえるかい、お袋さん。世の中が坂道で音軋ませて難儀してるのを。それは何かの間違いだ。ひとりの夜道に灯りも持たずに夫々迷い込むなんて。力を合わせればどんな闇も乗り切れる、そう言っていたのは誰なんだい。這い蹲って、地団駄踏んで、幼年期より聞き分けも悪く、まだそこに同じ灯りがある間は。

   メモ・ランダム 18 (2006/08/06)

  自分より背の低いものと並べば背が高くなると言う不思議。自分ひとりでは高くも低くもない。処世術は相手の選び方で決まる。

  長いものには巻かれろ、と言う。長いものは切らなければならない、のに。 

  コラム (2006/08/03)

  −汚れた顔のチャンピオン−

 個々のジャッジの審判があって、最終的な判定を下すのは現場の観戦者たちである。新・チャンピオン誕生の瞬間、場内は水を打ったように静まり返った。翌日の新聞の見出しには「仰天判定」とあった。これは一体何なのか?どうやら国辱的な勝利はテロリストの特許ではなかったようである。

 ボクサーほど孤独を強いられるスポーツはない。対戦相手に品性を疑われたらお終いだ。試合前にチャンピオンに握手を拒否されたことで勝敗は決まっていた。誰かが裏で握手を取り交わし、事実上の決着は散文的な粉飾が施されていたことになる。第一、始まる前に騒ぎ過ぎだが、あの挑発自体はスキャンダルとならない、贔屓の引き倒しが問題なのだ。汚れた、品性も好ましからぬ新・チャンピオンの前途は暗い。公正であればこの試合、決して不細工ではなかった。よくやった、と賞賛の声が上がりもしただろう。だが、結果はこの通りオムツを宛がわれた英雄とオシャブリ付きの国威発揚である。まるで戦後好況下の子育てそのものではないか。ティーンズ神話はもう沢山だ。繰り返そう、ボクシングは孤独な紳士のスポーツである。

 かっての世界フライ級チャンピオン・白井義雄と名コーチ・カーン博士のマンツーマン方式による練習風景を知る者は、私ばかりではあるまい。そこには軽量級選手の「身体科学と戦い方」の指南がある。日本の近代化はボクシングから始まった。幼児退行的なナショナリズムの奇妙な興奮の渦の中からは陳家な怪物しか現れない。真の英雄はベネズエラに去った。その人の名はファン・ランダエダ、正統派のアスリートである。勝敗はあとの祭り、抗議こそなかったものの抵抗はした。彼は闇の実勢力を敵に回して最後まで闘ったのだ。

     読売新聞 (8/3)

    

   メモ・ランダム 17 (2006/07/29)

 「愛」とは曖昧模糊とした現実性に乏しく定義不可能なものであろうか。愛にセックスという肉付けがなされ、マネーで取引されるようになると、購買意欲をそそる商品の価値は外見の美によって判断された。本来の精神性は快楽主義に道を開け渡し、自由と隷属に対する価値の顛倒が生まれる。

 「平成」は心の時代とも言われている。力から金、金から心へと民意が移行する。心が支配権を持つ時代、人間本来の尊厳に目覚めて始めて平和も成立する。そんな祈願を籠めた時代のネーミングではなかっただろうか。平和を事実上サポートするのは法と道徳である。自由は厳しい選択を迫られる筈だ。

  メモ・ランダム 16 (2006/07/26)

  不採算店舗も多店舗化すれば採算が取れると言う、不況対策。不況は<今日に非ず>だから、いつか大化けするんだろう。頭を留守にでもしなければ、こんな発想は生まれてこない。

  メモ・ランダム 15 (2006/07/22)

 こころの狭さが、現状打開の壁を作っている場合もある。滑らかな勾配にそって唯、岩を転がすだけでよいのに、手を触れようともしない。まず、角を削ることから始めよう。

 ペットと独裁者は自然死する。彼らに怨霊封じの葬儀はいらない。エクソシストの催眠術も役に立たない。

   メモ・ランダム 14 (2006/07/21)

 「平和は利己的なものである。だから戦争になるのもやむを得ない。」と塩野七生の本に書かれていた。鋭い指摘だ。古代ローマ一千年の輝かしい歴史は戦争のやり方の上手さにある、と言うことになる。あくまでも事実を素材としてのみ扱い怜悧に分析、現実的な思考の歯切れのよさは、通説を覆したあとの余韻のようなもの。

  反省の魔が人間を臆病にする、と言われる。本当にそうだろうか?寧ろ、我武者羅な行動をとることで問題回避する。こちらの方が問題だ。忘れることが臆病者を一層完璧に仕立て上げる。

    メモ・ランダム 13 (2006/07/09)

 殺さなければ殺されていた。それが西部だ。

 知と勇で勝ち残る。生き残るのではなく。

  幽霊が出たというだけではお話にもなんにもならない。幽霊が自殺しなければ怪談にならない。それ程、現代は病んでいる。

 頭の軽い人間は目立ちたがり屋だ。波が押さえ込んでも海面に浮き上がろうとするコルク栓のようだ。内面の豊かな人は、自分の背丈で物を考え、胸に手をあてながら、静かに水の引く時を待っている。

 善悪は対立しない。対立が悪であり、全体を保ち続けることが善だからである。消耗戦は人々の善意を限りなく遠ざける。馬鹿は二度死ぬ。

  先ず、矢を抜かなければならない。

拉致問題の解決なしに、外交は始まらない。

テポドン発射の当否は外交上の問題ではない。

  メモ・ランダム 12 (2006/07/06) 

 不幸な人とは、悪意にだけ反応し、善意に対しては応えようとしない人のことだ。逃げ腰と過剰防衛しか念頭にない。

 羊羹を二等分することにかけては、三歳児以上の天分を発揮した弟だが、寝たきりの母は頭の闇の中だ。割り切れないものは存在してはならない、これは如何にも哲学的だが、善悪についてはきちんとケジメをつけて貰いたい。反省も闇の中なら、よく似合うかもしれない。 

 釘は一度叩いただけで曲がる。だが、何度叩いても、中々元には戻らない。

    メモ・ランダム 11 (2006/07/02)

 死は野望の花嫁である。野望とは己の分際を超えること。マクベスは英雄だが、王位継承者ではなかった。バーナムの森や、女から生まれなかった剣士と言う設定は、あくまでも魔女の御託宣によるものであり、全て事実と幻想の混同で、マクベスの存在自体を象徴している。森が動き出すのも、良心による胸騒ぎに過ぎまい。ありえないことでしか身分が保証されないから、血を幾ら流しても足りないのだ。

 マクベスが居てマクベス夫人が居る。これは運命である。マクベス夫人が居てマクベスが居る。これは運命愛である。共犯関係によって夫婦の絆はさらに深まる。夫婦喧嘩は犬も食わないが、仲が良すぎるのは考えものである。 

 悪行をそれと知らずに同調してしまった人、又、気づこうとしない人は悪人だろうか?同調した以上は無関心ではいられない筈。不善それ自体は悪ではないが、この場合は手を貸した事実を反省するだけでは善と言えない。まして、開き直るようなことにでもなれば、もう立派な悪行である。動機の不純も反省が伴わなければ一つの行為である。

 父はアルコールが原因で早死にした。病院の父のベッドの枕元に、見舞い客を意識して、その男は後見人よろしく寄り添っていたが、同じ常連客であった居酒屋では、ひとりほくそ笑んで、乾杯をあげていたと言う。IMAちゃん、やさしさと勇気を有難う。 

  「父の日」に金庫とは、実によく考えたものである。万一の場合は合鍵がある。ことと次第によっては貸金庫として中身ごとごっそり回収。イエスに最も信頼の厚かったユダだからこそ出来た芸当。この模範的な会計係は、主人の死によって私腹を肥やすことになる。生き延びたユダは腹黒い責任転嫁で他人の頚を吊る。彼は知っていた。善悪は単なる心の揺らぎ、天国はお人よしの小便臭い落とし穴に過ぎず、財布の紐を解くのにも値しない、と。仮にハイエナ呼ばわりされても首輪さえ付けて貰えば、いつでも賢い番犬になれる、と。さすがこれは失笑を買ったようだが、父の約束の地はここである、と廃墟に旗を立てて宣言したらしい。約束の国は何処にもない、との前言もどこへやら、である。出店の裏づけ資金もなしに、父の遺命に従った狂信家が居たことになる。おいおい、待てよ、この石頭、最も石頭に話しかけるのもどうかとは思うが。せめて、お祈りだけは済ませよう。「我が弟よ、同胞よ。大型生命保険をありがとう!」

 

  メモ・ランダム 10 (2006/06/28)

 今流の表現で「超悪党」の方がぴったりだ。こいつは悪玉や善玉と手袋を嵌めたまま握手する。 

 90歳の寝たきりの母に、働き盛りを疾うに過ぎた四人の息子が居たとする。この場合の親孝行の物差しとは何であろう?言葉、金、笑顔、−どれもが立派過ぎはしないか?親孝行など口にするだけ野暮というもの、何故なら、全身に沁みこんだオムツの匂いでそれとわかる代物だから・・・。自分自身の原点に還る、この諦めの深さはどうであろう。厳しいが、どことなく滑稽で悲しい。障子の破れ目のような夢の隙間から寂しい風が吹き寄せて、ひんやり頬をうつ。 

   メモ・ランダム 9 (2006/06/25)

 大悪を免れるに小悪をもってした。これが種痘の原理で、目的は免疫体になるためである。最悪の場合は死を覚悟の上だが、片腕切断手術で、なんとか一命だけは取り止めた。巻き添えを食らい、その時、絡めていた指を失ったくらいで、文句を言う方がどうかしている。要は器の問題である。 

  

  メモ・ランダム 8 (2006/06/21)

 大筋での間違いを、枝葉末節に拘ることで、平然と見逃してしまう卑劣漢ども、間違いに竿をさして何処まで行くのか?

 絶対を思い誤ることで諍いになる場合が多い。私は正しい、ゆえにあなたは間違っている、そんな前提に立てば、明らかな間違いすら正しいことになる。世の中の何処にも絶対の落ち着く場所などないから、真理はパンのように分かつことが出来ない。普遍妥当性と言う数学的真理は現実の問題からは引き出せないだろう。

 

  メモ・ランダム 7 (2006/06/20)

 14本のクラブを使いこなすには年季が要る。1本のバットのためには技術が要る。ボールに体当たりするには精神が必要だ。精神は体力の表現であるからだ。

  メモ・ランダム 6 (2006/06/19)

 自覚のない悪党は悪人である。さらに、善人ぶるに至っては極悪人である。

 筋が通らないから混乱状態なのであって、筋を通したから、そうなったわけではない。野良犬の喧騒と勇士の楯の響きを混同してはならない。

  要するに<敵か味方か?>と言うだけのこと。善悪の問題なんかではなかった。悲しいかな、味方にするには目方が足りない。

    メモ・ランダム 5 (2006/06/14)

 鋭く放たれた一本の矢が

 的を射抜いただけで

 役立たずの三本は束ねられ

 火に炙られて、灰になった。

 未来は眩しい雷鳴の耳飾りだ。

   メモ・ランダム 4 (2006/06/11)

 「私」が法律である、と公の立場が認めてしまった。そこに再開発事業の「滑稽と悲惨」の全てがある。裁判所に持ち込んだところで、強行採決があるだけだ。我が物顔で裸の王様が通る。恥ずかしくて見ていられない。穴があったら入りたい。  

 

     メモ・ランダム 3 (2006/06/06)

   レスター・パンダが立ち上がった!一頃、マスコミの話題を浚った珍事だが、連想するのは、精々、狸の女湯覗き見ニュースくらいかな。ところで、大臣賞受賞の盗作事件、これはただ事ではすまないぞ。しかも、交情を暖める筈の往復書簡が改ざんされていたとなれば、芸術家以前に人間として既に失格である。日伊・両作家間の信頼関係の真偽を、見抜けなかった国会の百戦錬磨の狸も狸だ。そろそろ、藪に里帰りしたほうが良いのでは?それにしても、是だけの技量があって盗作とは、寧ろ原作者を凌ぐ程の、このW画伯の胸中が何といってもミステリーである。

      メモ・ランダム 2 (2006/05/25)

 豪快なドライバー・ショット、ゴルフはこの第一打から始まる、とビギナーの誰もが考える。そして他のショットに就いては余り重要視することがない。憧れと夢がフェアウェイを駆け巡るのも、第一打の良し悪しに掛かっている。本当にそうだろうか? トンデモナイ! この誤りに気づき、90%近く費やしていた、ドライバー・ショットの練習量を、そっくりパッティングに明け渡すだけで、悠に10打はスコアも縮まる筈である。何故なら、目に付きやすい秒針でしか、時間を測ることを知らない狂人の如き愚かしさに目覚めるからだ。ゴルフはパターに始まる。このことが解らないと、ネジの緩んだゼンマイ仕掛けの人形のようにプレーに張りがなくなる。パットをぴしりと決めてホールアウトしたあとの、自信たっぷりなドライバー・ショットなら、ほぼ完璧である。(いつしか文字盤上を空回りする秒針を追うだけで、時間を読むことなど不可能となる、それがドライバーの連打と言うものであった。) ゴルフはパターに始まる。さらに言えば、ゴルフはカップインから始まる。二クラウスはティアップする時に、カップインの音を聴いていた。

 誰もがカップからほんの三歩、躓いたとしても四歩のスタートラインに立っている。道具を選んだら、深呼吸するだけで充分だろう。コンパスの中心が決まったら、あとは長短自在の輪を描くだけだ。人生に於ける成功も発想の転換あってこそ。ゴルフは人生に似ている。それも、誰か他の人のではなく、自分自身の人生に。

     メモ・ランダム (2006/05/07)

 「モダン・ゴルフ」はベン・ホーガンの不朽の名著だが、初版本の表紙にグリップを確認している著者のイラストが書かれている。この暗示に富んだ場面こそ本書の要諦であり、彼の全業績の解答、と言えるかもしれない。過去に幾度となく公開を要請されていた正確無比のショットの奥義は、<黄金のグリップ>となって、このように開示された。彼自身、メジャー優勝一回分の価値ありと、マスコミの鼻先に突きつけたのだったが。

 バードン・グリップを踏襲したスクェアーなパームグリップ、彼の場合はロングサムだ。ここ1番で泣きを見るフッカーの悩みはこれで解消され、あの奇蹟的なアルバトロスによる逆転勝利の伝説が生まれた。サム・スニードとともに、オーバーラッピング・グリップ最盛期の花形選手として活躍した。ちなみに現代ではタイガー・ウッズの二クラウスから引き継いだインターロッキング・グリップが主流である。パワー・フェードからハイ・ドローへ、アウトサイドインからインサイドアウトへ、ドライバーショツトの球筋は確実に変化し、その戦略も変わった。  

      氷塊紀 ] (2006/03/29)

 読むことと、書くことが、言葉の世界でひとつになれば、もはや単なる読書人(ディレッタント)ではない。立派な物書きである。怒り、悲しみの表現にも色艶を持たせることが出来る。

    氷塊紀 \  (2006/03/21)

 自白は証拠の王と言われるが、拷問の父でもあった。歴史の教えによれば、真実は法廷にも教会にもなかったことになる。

      氷塊紀  [  (2006/03/21)

 言葉のマーケットで掘り出し物があると、メディアを介して政財界が賑わうことがある。流行語大賞で一時、気炎を上げた「セクハラ」もその一つ。汎用語にはお誂え向きの手軽さが受けて、女権思想の浸透が四半世紀は早まったとも言われている。労働運動の「搾取」「団結」が圧倒的な影響力を持ったことと併せて、言葉の役割を再認識させられる。感染力のあるウィルスが突然変異の原因であるという学説も頷ける。

       氷塊紀  Z  (2006/03/20)

 実数に整序があるように、ゼロに空位と欠落がある。0123・・、101、等のゼロは空位、1−1=0、2×0=0、のゼロは欠落である。空位は空間の位置関係、欠落は存在との関係である。場所と実体の関係を孕んだ始まりの意識がゼロという風にも言えるし、欠落の表情、残夢感がゼロとも言える。完全な死は「涅槃」であるが、ここに於いて始めてゼロは実数として忘却される。(0)=∞,0=(∞) は「寂滅為楽」。

 

    詩日記  (2006/03/17)

 蘇る御母よ、浄い泉よ。

 貴女はピグマリオンの悲しみの鋳型−、

 傍らで天の童子は最初に微笑む。

 

  氷塊紀  Y   (2006/03/10)

 「実定法」はギブスであって、義足ではない。手足の回復を見たら外すべきであろう。何故、「慣習法」に従おうとしないのだろうか? 血を通わせてこそ判決である。特に冷血漢にはたっぷりと?

    

   氷塊紀  X  (2006/03/8)

 友情と恋情が未来の双翼であった時代は終わった。黄金の恋など何処にもなく、友情も風の亡骸のように消えた。恋をいじましい道草のように思わせた競争社会も、その凛々しい輪郭を描いてはいない。時代の掌の上で弱々しく羽をひろげる蝶のような民意。花園も枯れる。

   氷塊紀  W  (2006/03/7)

 雲のように自由な学習。それは人生そのものに夢を与える。私たちにとって大切なものは遊びの中にこそある。太陽と風の道、政財界のトップに欠けているのは、この公の精神である。

 

      氷塊紀 V     (2006/03/03)

 事実は事実をして語らしめよ。「証拠」という過剰反応は滑稽だ。いつ私たちは勇気を失ったのか? 謙虚な正しさが勇気であり、文法力である。さらに言えば文体である。文脈をなさない代表制民主主義が自分の仕掛けた罠に落ちようとしている。

 両党首は肩越しに意味ありげな素振りで頷き合い、論敵は当該人物にその非礼の侘びを入れている。こんなさまにならない茶番劇で私たちをムカつかせておきながら、盗人のように予算案は通過する。臭いものには蓋、でなく。臭いものにはお辞儀しろ。これが21世紀の作法となった。

 一党独裁がどんなに恐ろしいかは歴史が語るところでもある。<あなたはお金で魂を売った!>ほんとうにそう思ったのか、この大根役者奴。と私は言いたい。そんなものは生まれた途端に、<へその緒>と一緒に取上げられてしまったよ。今度は、そういう連中の一人におまえさんがなる番だ。

 ダビデの雄雄しい姿の前で、ひとは裸になれない。公共広場のみすぼらしい影は五時になると退散する。

 

   氷塊紀 U    (2006/03/02)

掌にすっぽり納まるゴルフ・ボール、これは小さな巨人だ。

地球が軌道を外さない限り、ひとは頚を傾げる、・・・

何故、ショットもパットも思う通りにいかないのか、と。

プロの勝負はパットできまる。とよく言われる。

そうだろうか? 1ミリの誤差が400ヤードを遠くしたり

近くしたりすることに気づいていない。問題はこの

1ミリの壁にある。この壁をなくすには、どうすればいい?

忘れることだ。次のホールはそのためにある。

拘り続けたら、どんどん壁は厚くなるばかり。

きっと其の内、林の中に迷い込むことにもなろう。

蝿はガラス窓の向こうへ出ようと体当たりを繰り返す。

うしろへさがって、風を読み、さっと

脇から外へ出ることも出来るのに。

徒に体力を消耗しないためには知恵がいる。

強くあれ、やさしくあれ。

やさしい感性が強い意志に道を開けるのだ。

勝利の女神が微笑むのは

偶然の出会いからではないのだ。

 

      詩日記  (2006/02/28)

夕焼けは

黙って降りてゆく

夜の階を

手探りながら

船も岸もない

波ばかりの海面に

風が立ち

満月が帆を張る

          *

時計は女

時間は神

時計が止まっても

時間は止まらない

生活が毀れても

時間は生きている

女と共に過ごす

幸福なひと時

明日を夢見る

時間の子どもたち

 

  氷塊紀 T    (2006/02/27)

ドジに逆風−

法律が肩をもつのは

逃げ足の速い奴 と相場が決まっている。

法律も経済行為のひとつ とは

或る、最高裁判事のご託宣。

証拠物件も地球の反対側から

掘り始めた方が発見がはやいらしい。

法律はあなただけのものではない?

ではあなた達とは誰で、何処にいるのか。

そこにいるあなた以外の誰かで

あなたのいない場所にいつもいる。

       *

20世紀は人間精神史に深く掘られた

塹壕であった。

今世紀初頭からは土砂降り続きで

地面の底から溢れ出す紙

ゴミ、薔薇、黴臭い骸。・・・

     メモ・ランダム (2006/02/26)

 発狂と発案の区別すら付かない国会ほどくだらないものはない。それが何であれ、持ち込まれた以上、議案として成立する。ということは審議に値する。それなりの手続きあってのこと、第一失礼じゃないのかな。唯の鼠なら叩き出すだけの話だ。ガセネタなら的外れということになる。撃鉄は火を吹いたんだから、どちらにせよ一か八かの戯事に過ぎない。

時は金なり、銭は急げ、だ。ことほど左様に仮定と結果が齟齬を来たす例は枚挙に暇がないが、的が大きいほど長く燻り続ける。そして「竹光議員」がバッジを外す。ネクタイを外すくらい簡単な所作で。かって伏魔殿発言もあった。これは珍しく内部告発。奥の院は闇である。重い扉を前にして<開けゴマ>はないだろう。国税庁の鍵は内側からしか開かない。デリラを庇うサムソンは要らない筈なのだ。

    

    

    詩日記   (2006/02/26)

 

月の光を友として

砂の上の

自分の影を歩く

記譜法を忘れた海

ざわめきが閉じこもる貝殻−

遠くの沖で

稲妻が

人魚に網を掛ける

     ・・・・・

暮れなずむ海

鳥影の慕わしさ

月は傾く

砂の上の

欠け茶碗のように

 

      ・・・・・

 

天女を炙り出す

遠い夕焼け

燃え殻を

手押し車で運び

碾き臼で潰し終わると

酒蔵の

錠前が外される

 

      ・・・・・

いつまでも

最初のページの侭で

繰り返し幾度も

書かれては消える

砂の上のラブレター

      ・・・・・

    ショパン

遊星の花陰を泳ぐ白い魚

鳥影慌しい、掌の海

鍵盤に散る レモンの一滴

月の壁にそっと立てかけた

古い虹のベッドは毀れる

             ・・・・・

破れた海

波のメリーゴーランド

満月の天幕に

ブランコの影

貝殻の中で

傷ついている虹

                 

        詩日記  (2006/02/25)

 

    女−二題

         1

赤い唇を舐めながら

ねそべる女

風に握られた

小枝のような

水の壁に

ふるえわななく

魚の影のような

指で弾くと

ふわりとくずれる

吐息の森で

         2

微風を梳きながら

帆柱を競う女たち

黒い捲毛に

染まる指はよくうごく

満月のベッドで

すらりとあしを伸べ

 

        ・・・・・

月の光を纏い

砂の上に

自分の影を脱ぎ捨てている

記譜法を忘れた海

ざわめきながら

貝殻に閉じこもる

稲妻がとおくで

人魚に

網をかける

         ・・・・・

月の光を

破り捨てながら

波打ち際で泳いでいる

自分の影に

怯えるピアノ

ざわめきが

貝殻に閉じこもる

記譜法を忘れてしまった海よ

ときたま稲妻が

人魚の沖に

網をかける

 

         ・・・・・

あなたは

潮風の部屋に住む

気配の天使

光の国の

花びらの戸棚から

アトリエの

欠け茶碗まで

くりかえし捲られる

炎の舌の

一頁

          

          ・・・・・

 

太陽のパラソルの下に

眠る小鳥の心臓のような

海よ

彼女たちの

まぶしい胸当て

褐色の林の中の風の路

うすい腹のうえを

まわりながら翳る花

ゆっくりと沈む

麦のとびらの部屋

 

     詩日記 (2006/02/24)

それは

夕焼けを掻き混ぜた 

水飴のように甘く

花に誘われた蜜蜂の

羽ばたきのように寂しい

あなたからの手紙でした。

いまそっと指で隠します

   −−ブログの森に。

       ・・・・・

 

天体の麗しさ

あなたという

存在の正しさ

ぷん と匂い立つ

レモンの一滴

遊星の水溜り

       ・・・・・

波は

鍵の替わりに

花を

花の替わりに

重い鍵の束を

砂の上は

影の祭り  

波は

鍵と花の

賑わい

       ・・・・・

    言葉について

石の来歴−

吐息の花の壁

盲の木霊が落ちる。

 

       ・・・・・

     或る修辞学

削られた岸

不眠の足跡

満月が涼しい帆を張る港に

鳥の羽のように落ちる

レモンの一滴

       ・・・・・

沖に掻き曇る

武具(もののぐ)の海

風の族(うから)の

古い歌

 

        ・・・・・

     波

帆柱を競わせながら

微風を編む女たち

巻毛に黒く染まる

しなやかな指

波のベッドから

すらりと脚をのばす

 

      女−二題

     T

赤い唇を舐めながら

ねそべる女

風に握られた

小枝のような

水の壁に

ふるえわななく

魚の影のような

指で弾くと

ふわりと崩れる

吐息の森で

      

      U

月の光を

脱ぎ捨てて

花びらと欠け茶碗

の陰から

すらりとした脚を

伸ばす女

つばひろ帽子

の海

 

 

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