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・おしゃべりな本棚


著:中村 卓
出版社:文芸社
タイトル:

響くものと流れるもの <小説と批評の対話>

著者:

福田和也/柳美里

出版社:
PHP研究所
書評:

 マラルメの詩、<海の微風>の冒頭の一行「肉体は悲しいのだ」はキリストが弟子たちとともに過ごしたゲッセマネの夜を思い出させる。この世で痛みを分かち合う者たちにとって、天国は郷愁の世界だが、幼児にとっては存在そのものである。ところで単純な驚きには複雑な想いが纏わりつくものであり、感嘆符が疑問符に取って代わられるとき、大人は外側の輪郭をなぞるだけだが、幼児は内側から世界を見ている。キリストは信仰というものを幼児を抱き抱える姿にも例えた。この聖書のエピソードを通して後世の誰一人としてユダの接吻が敵襲を知らせる合図だと解してはいないが、天国の内陣に相応しくないこの背信行為は、なにもユダの責任にのみ帰すべき問題ではない。測り知れない神の計画の一歩が印された場所はどこもかしこも神聖な気に満ちている。キリストの目にはユダもまた憎めない赤子の一人なのだ。

 さて、人と人の出会いには必ず「対置法(パートナーシップ)」という自然法則が働く。上下、左右、前後、これらの空間配置に格別の価値があるときに始めて社会性が問われる。男女はエロスで、親子はアガペーで結ばれるが、愛憎が中和された理念で結ばれるとき友情となる。そしてこの友情の諸要因がヒエラルキーとしての職業格差を生む。これが能力主義の社会である。第一印象に曇りが生じ詩の調律が乱れたためにバランス回復の手段として戯曲が生まれるわけだが、ハイテンションなドタバタ劇にうんざりして、やがて傍白でしかない小説というモノローグに閉じ籠もる。このようにクオリティの高さを競う筈の文学的事件も散文的堕落から決して例外ではないのだが、福田和也VS柳美里とは如何な風の吹き回しであろうか、世にも珍しい組み合わせがあったものである。

 些か長い前置きで、しかも高尚すぎるきらいがなきにしもあらずだが、新手の狎れあいデスマッチに待ったを入れるにはこうするしかなかった。叩き上げの在日韓国人女流作家とかたや素封家のお坊ちゃんで名門大学の助教授、どちらも売れっ子のエンターテナーだが、何の因果でこうなったかと言えば、今時珍しい下剋上である。相手が相手だけに舐めるんじゃあないよと、咬みついた猛女の剣幕は半端じゃなかった。結論から言えば軍配は柳美里に上がる。心理的な屈折の繊細さと思考レベルは殆ど互角だが福田和也は小説が書けない。なりゆき上、後日を期して自分も書かざるを得なくなったオマケまで付く。そもそも創作の実体験なしに小説という<果実>をどう論議してみたところで、徒に外側を撫でさするだけで内側の視線を欠いている。個人の資質と社会性が時代の網目に構造的に組み込まれるかどうかは問題ではない。知ったことか!この一発で決まりなのだ。その昔、神の座にあった批評精神も、地に落ちたはずみでメタ言語をしこたま背負い込み、にっちもさっちもいかない自問自答の繰り返しでは、出たとこ勝負のモグラ叩きとでもいうほかあるまい。今や、マスコミに掻き回された安手のサドマゾ・コンプレックスでわけのわからぬことになってしまっている。成程、人間がいなくなったら神の存在も形無しである。だからと言って自分自身の鏡でしかない<他者>を相手に悦に入っているだけではどうしょうもあるまい。以下の証言をもってその恰好のサンプルとしよう。「なるべくならこの言葉を使わずにお伝えしたかったのですが天才だと思いました。」と柳美里。「そのために読者は強力な手腕のもとで説きふせられながらも、割り切れない違和感が残り、クリスプな文体と、意識的な紋切り型の多用・・・云々」と福田和也。最上級の賛辞と手の込んだレトリックの援用は抜け目ない自己紹介のはたまた熱烈なラブコールの裏返しではなかったろうか。とは言え、中々、ご苦労様では済まなんだ。<響くものと流れるもの>なるいけ好かないタイトルを御覧じろ。まるで編集が神の座を陣取ったかのようではないか。海の微風よ、今は何処ぞ。


 

 


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